巡礼者の手記
ある巡礼者が持っていた手記。一部の文字は海水によって滲んでおり、判読不能になっている。

巡礼者の手記

「1ページ目」
今夜は満月だ。

バルネアのテラスに立ち、ファジェイナに祈りを捧げていた時、海から奇妙な音楽が聞こえた。波の囁きでも、祭りの喧騒でもなく、それは深く、遥かな旋律で、海の底から響いてきた。祭司たちは風の寝言だと言うが、私にはわかる。ファジェイナが、私を呼んでいる。

明日になったら、歌響く大海へ行こう。あそこなら音楽の源にもっと近づける。

「2ページ目」
スティコシアに着いてから2日が経った。
夜、人々が酒に溺れている時間に、私は一人で海辺を訪れた。音楽はオクヘイマで聞いた時よりも明瞭で、まるで哀愁を帯びた叙事詩のように、忘れられた歴史と果たせなかった約束を語っているようだった。

地元の漁師たちに尋ねてみる。彼らが言うには、確かに海の底には古い神殿があるが、そこへたどり着いた者はいない。ファジェイナの敬虔な信者以外が海底からの音楽を耳にすると、正気を失って海に身を投げ、二度と戻ってこないのだという。そして、私にもあの音楽を追ってはいけないと警告した。

しかし彼らは知らない。あの音楽が私に与えたのは狂気ではなく、啓示だったということを。

「5ページ目」
今日は神殿を訪れた。大司祭は私の意図を察していたかのように、水中で呼吸できるという特別なネクタールを授けてくれた。そして、海の底に向かうのならば、それが決して戻ることの出来ぬ道だと知っておかなければならない、と言っていた。

「ファジェイナの歌声は、優れた霊性を持つ信者を呼びよせる」と祭司は語る。「そこで、あなたは永遠を目の当たりにするだろう」と。

準備は整った。私はこの手記を旅の終わりまで持ち歩き、経験した全てを記録し続けるつもりだ。

…待てよ、海の中で手記は呼吸…じゃない…水による破損を防げるのか?聞き忘れた…明日司祭に聞いてみよう。

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私はネクタールを飲んだ。手記も浸して、海水の侵食を受けないようにした。ネクタールの味は奇妙で、飲み込むと胃に鋭い痛みが走り、その後は不思議な心地よさが残った。

水に飛び込んで驚いた。まるで自分が魚になったかのように呼吸ができた。

海底の世界は、想像よりもずっと華やかだった。変わった形をした海洋生物たちが周りを泳いでいたが、誰も私の存在を気にする様子はなく、まるで私も彼らの仲間であるような気さえした。光が道を示すように奇妙な模様を描き、そしてあの音楽はますますはっきりと聞こえてきた。

私は音楽の源へ向かって、さらに深く潜っていった。

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もはや時間の感覚は消え失せた。今日が何日で、今は何時なのかもわからない。海底では、光と影の変化が地上とはまるで違っている。

入り口を見つけた。それは巨大なアーチ状をしており、周囲にはファジェイナとその眷属たちの姿が彫刻されている。アーチの向こうにはさらなる深みへ続く長い通路があり、その壁にはルーンや壁画が刻まれ、セイレーンの伝説を物語っていた。私はそこで、ヘレクトラが神の杯に飛び込む場面や、ファジェイナの涙が暗黒の潮と交わる光景を見ることができた。

音楽はどんどん明瞭になり、まるで私を導くかのようだ。

20ページ目」
どれだけの時間が経ったのか。海水が耳から脳へ流れ込むような感覚を覚えて、咄嗟に水を抜き出そうとしたが…何かおかしい。周りはすべて海水だというのに、どうやって耳に入った水が抜けるというんだ。

もうどれだけ泳いだかわからない。私はひたすらに泳いで、泳いで、泳ぎ続けて…幾重にも重なる回廊を通り抜け、やがて壮大なドームにたどり着いた。そこには信じられない光景が広がっていた。水の流れが空中で凝固し、美しい曲線を描いている。貝や珊瑚でできた巨大なシャンデリアが柔らかい光を放ち、環状に配置された座席には観客たち——人類、セイレーン、そして私の知り得ない生き物たちが座っていた。彼らはまるで彫像のように、微動だにしない。

ホール中央に配置された円形のステージには、何層にもなる水のカーテンがかかっていて、その向こうにはぼんやりとだが女性の姿が見えるような気がする。見えない、決してはっきりとは見えないが…彼女が持っているのはバイオリンだろうか?椅子に座っているのか?何もわからない…ひとつだけ確かなのは、彼女が奏でているのが、あのもの哀しい旋律であるということ。私は入り口に立ったまま、彼女の邪魔をしないよう、ただ静かに演奏に耳を傾けた。

「??ページ目」
私はその場にとどまり、演奏を聴き続けていた。演奏は、まだ終わっていない。

彼女の音楽には、いくつもの記憶が込められていた。旋律を耳にするうち、私は遠い過去の情景を垣間見た——セイレーンとファジェイナとの契約、暗黒の潮の最初の侵攻、神の杯に飛び込むヘレクトラ、海底王国の裏切りと破滅……

これは単なる音楽ではない。凍りついた時間であり、忘却を拒んだ歴史だった。

私は前列の空席に座った。ふと、私の身体も硬直し始め、この永遠の一部になりつつあることに気がついた。体の感覚は徐々に鈍化していくが、思考はむしろ鮮明になっていた。

ああ、そうか……

この観客たちはみな、私と同じく音楽に導かれた巡礼者なのだ。私たちは歴史の証人として、この永遠の中で凍りつく。
だが、悔いはない。ここでは、時間に意味はなく、苦しみも喜びも、何もかもが永遠の静けさに溶け出し、薄れていく。私たちはこの最後の旋律を永久に聴き続け、そして、いつかこの永遠を断ち切る真の守護者が現れるのをじっと待つのだ。

記録を残すのも、これが最後になるかもしれない。もしもこの手記を見つけた者がいたならば、どうか知っておいてほしい——海の底のもっと深くで、永遠の奏者とその観客たちが、預言の成就と、成されるはずもない約束が果たされることを、今も待ち続けていることを……

ああ、ファジェイナよ。我らの祈りは誰かに届いているだろうか?我らに救い主は現れるだろうか?それとも——この凍りついた時間の中で、我らは永遠に待ち続ける定めなのか?

(残りのページは海水で文字が滲んでいるが、最後のページの一行だけは、かろうじて読み取れる)

彼方に光が見える。あれは夜明けか、それとも幻か。